テーテンス事務所の歩みHISTORY

1914-1930建材社の時代へPART 1

A.P.テーテンスの来日

ドイツ人 アウグスト・ペーター・テーテンス(August Peter Tetens 1883~1966)建材社(現大気社)暖房工事の技師として招聘され1914年3月に来日(31歳)
当時、ボイラー、ラジエーター等の暖房機器はアメリカ製もしくはドイツ製であり、建材社の創設者のメンバーがドイツ人であったのでドイツ製を採用し、そのシステム設計及び施工指導者としてテーテンス氏が招聘されたのである。
暖房方式としては石炭焚ボイラーによる蒸気暖房、温水暖房の重力式を主に採用したため、非常に緻密な設計を要求されるシステムであった。我々が入社した当時、大きな建物でもまだ温水暖房が採用されており、初川副所長(当時)の指導により配管抵抗を計算してラジエーター1台1台にオリフィスを取り付け、温水流量の調整を行っていた。残念ながら現在では実際のオリフィス計算に携わった者はいなくなってしまった。

東京海上ビルの設計

地上7階、地下1階 延床面積19,630m2  建築設計 曾禰中條設計事務所
今の超高層に匹敵する規模であり、暖房システムの設計を来日直後のテーテンス氏が建材社の担当者として行っている。暖房方式として大きな建物では蒸気暖房が主流であったが東京海上ビルでは温水ポンプによる強制循環式温水暖房を採用した。その理由として下記の様な特徴を上げている。

  • 温水の方が蒸気より温度が低く熱損失が少なく、制御が容易なため室温の加熱を防ぎランニングコストを安くすることが出来る。
    この特徴を生かして東京海上ビルにおいては方位別のゾーニングを行っている。
  • 温度が低いため過度な空気の乾燥をさせず、上下温度の差を小さくすることが出来、快適な暖房が可能になる。
  • 温水暖房は常に充水システムであり蒸気配管のような配管腐食が起こりにくい。
  • 温水の強制循環方式は蒸気配管のように大きな勾配が必要なく、建築的に収まりが良い。

イニシャルコストは少々高めであったようであるが、現在も建築設備設計者が考慮しなくてはならない基本事項が充たされている。特に快適性という指標はこの当時、あまり考慮されていなかったのではないだろうか。この考え方は葉山に受け継がれ現在のテーテンス事務所の主題となっている。
東京海上ビルは日本の温水暖房のエポックであり、空気調和・衛生工学会の便覧(第14版)「建築設備の略史」に「ドイツ人テーテンスの設計により成功を収めて以来…」と掲載されている。
1914年(大正3年)3月に来日とあるが、この年の6月には第一次世界大戦が始まり、日本とドイツは敵国関係になってしまう。建材社等、周囲の方の尽力により、監視付ではあるが、仕事を遂行することが出来た。第二次世界大戦の折には日本と同じ敗戦国になり、仕事だけではなく多難な日本での生活を送ることになる。

外国人設計者との繋がり

「大気社80年」に主な建築設計者毎(6名)の昭和初期までの経歴が掲載してある。その内の2名がヴォーリズ(William Merrell Vories)氏とレーモンド(Antonin Raymond)氏である。その表は丁度、テーテンス氏が建材社を離れる時期までで終わっている。テーテンス氏はその後も引き続き両氏の仕事を行っており、ヴォーリズ建築事務所、レーモンド設計事務所とは現在でも継続して仕事をしている。
下記に「大気社80年」に掲載されている物件のうちテーテンス氏ノートにあるものと比較してみると、ほとんどの物件が重なっている。

ヴォーリズ氏、レーモンド氏との仕事

※『「大気社80年」 3.建築家たちの支援』に掲載されているヴォーリズ氏、レーモンド氏設計作品表にテーテンス欄を追加している。

閑話休題

 我々(佐治ら)が入社した当時(1973年)、テーテンス邸(1924年)が事務所の直ぐ近くの久が原に有り、傾斜地の上に白亜の館のように建っていた素晴しい住宅であった。設計はレーモンド氏で、レーモンド事務所に設計図が残っており、その図面の一部が下記の図である。現在は分譲マンションになっている。ちなみにレーモンド邸の暖房設計はテーテンス氏自身が行っている。
話は違うが、テーテンス氏の別荘が熱海に残っていた。数年前、事務所整理の折、地が青の図面がでてきたが、そちらは前川國男氏の設計である(1942年)。もしかしたらレーモンド事務所で前川氏が図面を書き、熱海の別荘は前川事務所で丹下健三氏が書いたのではと思いを馳せてみたが可能性はかなり薄いようである。

テーテンス氏による主な仕事

テーテンス邸図面(レーモンド設計事務所提供)

空気調和衛生工学会編「日本建築設備年譜」にテーテンス氏の名前が記入されている物件をまとめたのが次ページの表「空気調和衛生工学会編日本建築設備年譜 テーテンス氏の仕事」である。「年譜」には建材社とのみ記されている物件で「テーテンス氏ノート」にあるものも、「ノート」だけにしかない物件も加えた。
建材社時代で特筆されることはフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルに携わっている事である。帝国ホテルは関東大震災(1923年)でも壊れなかったという話が有名であるが、箱根の富士屋ホテルについてもテーテンス指導による配管はびくともしていなかったと「大気社80年」に記されている。

「空気調和衛生工学会編日本建築設備年譜」
からのテーテンス氏の仕事

「空気調和衛生工学会編日本建築設備年譜」からのテーテンス氏の仕事
  • 註:佐治作成
  • 註:学会=空気調和・衛生工学会編「日本建築設備年譜」TN=テーテンス氏ノート ○:記載有り △:建材社とのみ記載有り ボイラー能力はテーテンス氏ノートより 記載が違う場合は学会を優先
  • ※1 「大気社」80年より
  • ※2 前年、星製薬実業学校がレーモンドにより設計されている
  • ※3 東洋で最大とテーテンス氏のメモ有り
  • ※4 テーテンスの記入は無い

「テーテンスノート」に星製薬大崎工場では温風暖房と共に空気調和と記入されている。空調方式は井水利用のエアワッシャー方式と「大気社80年」にある。「テーテンスノート」の備考欄に「BIGGEST and most complete equipment of this kind in the Orient (アジア最大の完璧な設備)」と書いてあり、テーテンス氏の自信がみなぎっている。日本における冷房も紡績工場等の産業用が出発点になっている。エアワッシャー方式は水噴霧による冷却方式なので湿度制御までは難しかったと思われるが、1929年ナショナル銀行大阪支店ではCO2冷媒冷凍機(今のエコキュートと同じコンセプト)を使用して、現在の空調に近づいてきている。

「ノート」にある主な物件

金融
三井銀行、東京海上、朝鮮銀行、津田銀行、日本興業銀行、第百銀行、山口銀行、住友銀行、日本海上火災、日米証券、川崎銀行、日清生命、灘商業銀行、鹿島銀行、第十銀行、足利銀行、台湾銀行、遠州銀行、香港上海銀行、大同生命本社ビル、愛国生命
商業
高島屋、大丸、白木屋
邸宅
徳川侯爵邸、岩崎男爵邸、後藤新平邸、松方(正義公爵?)邸、レーモンド邸
学校
慶応大学、関西学院大学、東北学院、星学園、東京女子大学、聖心女子学院、上智大学、立教大学、国学院大学、関東学院、駒澤大学、フェリス女学院、広島女子学校、東京帝大、東京女子医大、昭和医大、共立女子学校、ノートルダム女学院、早稲田奉仕園スコットホール(ヴォーリズ氏)、広島女学院
集会
日光金谷ホテル、箱根富士屋ホテル、如水会館、東京YMCA、鎌倉京浜ホテル、新橋演舞場、帝国ホテル、奈良温泉(bath houseと表記されているが奈良ホテルではないか)、上野美術館、明治座
工場
星製薬、東京計器
出版
東京朝日新聞、東京日々新聞、実業の日本、主婦の友社、大阪毎日新聞、時事新聞、報知新聞、改造社
病院
近江サナトリューム(ヴォーリズ氏)、神戸病院、聖路加病院、聖母病院
その他
政友会ビル、ベルギー大使館、ソヴィエト大使館(レーモンド氏)、カナダ公使館、ローマ公使館

学校は戦後も多く手がけているがここでは銀行の多いのが目立つ。上智大学は今年、創立百周年を迎えたが、「テーテンスノート」での初出は1924年になっている。上智大学とは創立当時から2005年竣工の高層ビル(2号館)まで80年の付き合いをさせていただいている。一般のビジネスにおいてもこれだけ長い付き合いはごく稀なケースではないだろうか。
1929年、アメリカから空調技術の開発者であるキャリア氏が日本での提携先を探しに来日した折、アメリカ領事館ではテーテンス氏を紹介したが、当時の建材社経営者とテーテンス氏の調整がつかず、三機工業が提携先に決まってしまった。もし、この時、提携が上手くいっていたらテーテンス氏は暖房のみならず、空調においても現在の日本の空調の主流的な立場を作り上げた井上宇一氏の様な存在になっていたかも知れないと思うのは贔屓目であろうか。
1924年(大正13年)には建材社時代に知り合った西原衛生工業所創設者の西原脩三氏等と共に衛生金具製作会社パイロットを創設している。