テーテンス事務所の歩みHISTORY

1963-2006法人化「有限会社テーテンス事務所」PART 4

有限会社テーテンス事務所の誕生とテーテンス氏の逝去

それまでテーテンス氏の個人事務所であったものが、1963年(昭和38年)有限会社テーテンス事務所として代表取締役会長 A.P.テーテンス、取締役社長 葉山成三を役員とする形で発足した。葉山36歳である。資本金は5,000,000円。
1965年(昭和40年)テーテンス邸の近くのテーテンス氏所有であった土地に1階ブロック造、2階木造という社屋が竣工し、組織、外観ともに現在に至るテーテンス事務所が誕生した。現日本サーマル会長の森政丕が入社した1965年は、テーテンス邸で仕事をしていたそうである。テーテンス氏と一緒に仕事をした方では、森政丕だけになってしまっている。
テーテンス事務所が法人になってまもなく、1966年(昭和41年)3月テーテンス氏が永眠された。来日から52年、日本の設備業界(設計、施工)育成に多大な影響を残して逝った。石福氏によると五反田のドイツ教会で葬儀が行われ、故郷、ドイツ、ホルスタイン州に墓所があると記されている。

新組織造り

組織的には工事部門を1965年(昭和40年)テーテンスエンジニアリングサービス(サービス部門)、1966年(昭和41年)日本サーマルカンパニーリミテッド(現、日本サーマル)として分社化した。当時は内部での交流は多く、忙しい時には互いに手伝いをしたり、時には出向したりしていた。
テーテンス氏の時代は冷暖房専門の事務所であったが、この時期から電気、衛生についての設計も受ける総合設備設計事務所となる。電気、衛生設計スタッフは事務所内にはいなかったので、電気設備については昭和設備設計(近藤正憲氏、依田治郎氏)、設備計画(中村守保氏、後日、依田氏が移ってくる)、清水電気事務所(清水四郎氏)、衛生は始め近藤勝事務所に依頼していたが近藤氏は建築設計事務所に専念するようになり、その後は新設計(平松寿康氏、佐原勲氏)に依頼するようになった。衛生については、現在では内部で設計をするようになっている。電気はその後、昭和設備から細貝清光氏、清水電気事務所から長谷川茂氏、設備計画から鈴木隆夫氏、勅使川原良一氏が独立し、その方達にも依頼するようになっている。
特筆するものとしてドイツから輸入したEXO(メーカー名)ボイラーの販売をしていたことが挙げられる。石油、石炭、薪を燃料として使用することができ、手動の四方弁(温水温度制御用)がある高級ボイラーであり、当時の富裕層のシンボルであったセントラルヒーティングに使用され、それを縁に水澤工務店との繋がりが出来た。
葉山が社長に就任してしばらくして、それまでいた設計スタッフが辞めていったようであり、新しい組織を作らなければならなくなった。
1966年三機工業から移ってきた初川吉洋が入社した。初川は早稲田大学第一理工学部建築学科井上宇一研究室の出身であり、以降テーテンス事務所に設備業界のスタンダード的な考え方である空調技術を導入するのに大きな貢献を果たした。1972年に副所長に就任している。初川が一級建築士資格を所有していたので建築士事務所登録を行い法的にも設計事務所となった。以降、葉山、初川体制が30年近く続くことになる。

葉山時代の仕事

(1)初期(オイルショック前)

引き続きキリスト教関係の仕事が続く。
上智大学(木下建築事務所)、国際基督教大学(ヴォーリズ氏、レーモンド氏、稲富昭氏)、聖心女子大学(丹下健三氏)、清泉女子大学、白百合女子大学、聖心インターナショナルスクール(丹下健三氏)、星光学園、聖母病院聖(双星社竹腰建築事務所)、長崎聖フランシスコ病院(竹腰建築事務所)、神戸海星病院(竹腰建築事務所)、聖母の園老人ホーム、東京カテドラル二期(丹下健三氏)、六甲学園、万博キリスト教館(稲富昭氏)、札幌天使病院、聖ヨハネ学園(茂木計一郎氏)、青森明の星学園(村井建築事務所)

キリスト教関係以外の仕事も増え、現在の主流であるアトリエ系の建築設計事務所が増えてくる時期である。水澤工務店社史に「昭和40年にEXOボイラー販売を、谷口吉郎先生のご指示により御自宅に使用したことから、そのボイラーを輸入したテーテンス事務所の葉山成三所長と知遇を得ることになった。同社に40年から冷暖房の設計・監理を依頼し、また同事務所42年から工事部門(日本サーマル)を発足させるようになってから、水澤の空調設備は主としてテーテンスグループが担当するようになり、今日に至っています。」とある。水澤工務店の関係で吉田五十八氏、谷口吉郎氏、村野藤吾氏を始め多くの建築家と仕事をさせて頂くことになる。
特に吉田氏は弟子筋の方々、大関徹氏、星島光平氏、今里隆氏、寺井徹氏、野村加根夫氏、畠山博茂氏、板垣元彬氏へと継続されていく。吉田五十八氏の仕事としては岸信介邸、御木谷邸、秩父宮邸、氏の遺作となった在米国日本大使館等を担当した。
丹下健三氏と仕事をさせていただいた関係で長島正充氏、松下一之氏、土岐新氏、木島安史氏、城戸崎博孝氏、鈴木エドワード氏と仕事をしている。
前川國男事務所出身者は川原一郎氏、雨宮亮平氏、大宇根弘司氏がいる。茂木計一郎氏は東京藝術大学教授であった関係から、清水捷三氏、片山和俊氏、田中敏溥氏、梅沢典雄氏等へと続いている。
この時代に現在のテーテンス事務所の仕事の形態が形作られてくる。丁度、高度経済成長期に当っており、多様な建築家を生み出すことが出来る時代であり、独立して設計事務所をやっていける環境もあったのではないだろうか。

(2)中期(オイルショックからバブル崩壊まで)

建設業は工事契約してから建物が完成1~2年、大型物件では数年後と竣工するまでの期間が長く、急激なインフレに対して弱い体質である。オイルショックの時には契約後、契約金額の追加が認められることがあった。オリンピック、列島改造景気で順調に業績を拡大していたテーテンス事務所も停滞を余儀なくされた。そんな中、いち早く太陽熱システムを推し進めていくと同時に、ほとんど民間物件だけであったのが公共物件の仕事を行うようになり、学校、病院以外の大型物件も増えてくる。1986年からバブル景気が始まりコンピュータを使用した空調技術が大きく進歩を初め、CADだけでなく設備設計の方法も変化していく時代である。
この時期は旧経歴書約1,500件の中でも一番、物件数が多い時期であり、以降の物件(佐藤の時代まで)については件数が多く別表にまとめる。設計者、設計事務所ごとに掲載するが、設計者が不明な物件も多数ある。

(3)後期(バブル崩壊後、コンペの時代)

空調システムの変遷で述べるように「省エネ・環境」技術を前面に出して仕事をする様になる。雑誌への寄稿、講演の依頼等が多数あったが、そんな中、葉山は「天井冷暖房のすすめ・環境エネルギー時代に向けて」を書くことになる。狭い業界の中の隠れたベストセラーとなり、知らない方々から「葉山さんの本を読んだ」という声を掛けられることもあった。現在の所員にもこの本を読んで応募してきた者がいる。「省エネ・環境」設計家葉山として知られるようになる。この時期から、特に公共工事でコンペ、プロポーザル方式によって設計者を決めることが多くなり「一緒にコンペに参加して欲しい。」という依頼が多くなり、コンペや環境を喫機として仕事をするようになる建築家、建築事務所が増えてくる。葉山が参加したコンペのうち、1/3が選ばれている。今から考えると確かに驚異的な当選率である(葉山は勝率と呼んでいた)。
坂倉建築研究所・阪田誠三氏、アルコム・船越徹氏、六角設計工房・六角鬼丈氏、岩村アトリエ・岩村和夫氏、池原建築設計事務所・池原義郎氏、岡田新一設計事務所・岡田新一氏、プランテック総合計画・大江匡氏、長谷川逸子建築計画工房・長谷川逸子氏、環境デザイン研究所・仙田満氏、DFI・入江正之氏、フォルムシステムズ・富永譲氏、田辺計画工房・田邉恵一氏、横河設計工房・横河健氏、スタジオナスカ・古谷誠章氏、鈴木エドワード建築設計事務所・鈴木エドワード氏、伊東豊雄建築設計事務所・伊東豊雄氏、北川原温建築都市研究所・北川原温氏という錚々たる建築家と一緒にコンペに参加し、この中の多くの方と現在も仕事を継続しており、仕事先がアトリエ系設計事務所という路線が確定する。同時に大型物件の公共工事が増え、現在のテーテンス事務所に直結した形となる。

旧経歴書掲載中期
(オイルショックからバブル崩壊まで)の作品旧経歴書掲載中期(オイルショックからバブル崩壊まで)の作品

後期(バブル崩壊以後から葉山引退まで)の作品後期(バブル崩壊以後から葉山引退まで)の作品後期(バブル崩壊以後から葉山引退まで)の作品

空調システムの変遷

(1)1960年代

この頃はまだ暖房だけという建物が多かった。旧経歴書では、蒸気は病院、工場、寒冷地、地域暖房と特定の建築にしか使われず、ほとんど温水暖房になっている。燃料は公害問題の規制が強くなった影響で都会においては、A重油は使用されなくなり灯油に変わっていった。テーテンス事務所における地域暖房としては学校のキャンパスが挙げられ、建物の特徴、コスト等を考慮してシステムが決められた。

  • 上智大学 炉筒煙管ボイラーによる高圧蒸気方式
    パワーステーションからキャンパス道路下に4m角程度のトレンチがあり、そこから各棟へ蒸気(暖房用熱源)、水道、電気、弱電を供給している。その後、建物が増えていったがトレンチのおかげで今でもインフラが明確になっている。この大トレンチは、直接の設備システムではないが葉山の代表作ではないかと思う。
  • 国際基督教大学 窒素加圧による高温水方式
    宮城学院 高架水槽(膨張タンク)を高くする自然加圧による高温水方式

(2)冷暖房の普及

1970年代になると冷暖房が多くなってくる。暖房は石油を使用したボイラー、冷房は空冷も有ったが冷却塔で排熱する水冷チラーが一般的であった。冷温水を使用するファンコイルユニットでは機器の抵抗が違うためオリフィスは使用出来ず流量調整弁に変わっていった。高級住宅でもチラー、ボイラーを熱源としたファンコイルユニットで冷暖房を行っており、それに床暖房が加わると二系統(二温度)の温水を作るため三方弁まで取り付けるようなこともあり、今では大型建築にしか使用されていないシステムと同じシステムを使用していた。「機械室だけでウチより広い。」なんていう住宅まであった。
夏と冬で配管を切り替える必要があり図面を書くのも手間が掛かったが、使用する施主は切り替えを専門のサービスマンに依頼する必要があり維持費もかなり高額であったため、一般の住宅ではとても使用できるものではなかった。他に住宅用の吸収式冷温水機もあったが一重効用しかなく効率が悪くあまり普及しなかった。1980年 には小型二重効用吸収式が矢崎総業から発売され効率がよくなると同時に、東京ガス等のガス会社が小型空調契約という割引制度を実施するようになり、ランニングコストでヒートポンプチラーと競合が出来るようになり住宅で使用できるようになった。

(3)空冷ヒートポンプの時代

1980年頃、三菱電機から空冷ヒートポンプチラーが発売され(米国ウエスティング社との技術提携ではなかったかと記憶している)、中・小型物件ではボイラー+水冷チラーに取って代わった。空冷ヒートポンプチラーは屋外設置なので機械室が不要であり、システムが簡単になり、機械、配管ともコストが下がり、冷暖房切り替えもスイッチで可能になり保守費も安くなり冷暖房の普及に貢献する。

(4)中近東の設計

シビックデザイン(松下一之氏)の物件では中近東のアラブ首長国連邦の市庁舎、アラビア石油等の大型物件が多数あったが、砂漠地域では水が使用できず(水より石油の方が安いと言われていた)、効率は悪かったが空冷式チラーを使用した。中近東では日射量、日射時間等が日本と大きく違い熱計算に使用する相当温度差が日本の値では使用できなくなるため河野は自分で相当温度差を算出していた。

(5)オイルショックの影響

オイルショック前はコンクリート打放しの建築多かったが、社会的に省エネが叫ばれるようになり断熱材の使用が当たり前の時代になってきた(もちろん窓は単層ガラスである)。その影響でそれまでより暖房負荷を減らし平均放射温度が室温に近づき底冷えを和らげ上下温度差を小さく出来るようになり、エアコンによる冷暖房導入の下地が出来てきた。
テーテンス事務所ではいち早く太陽熱システム(冷房、暖房、給湯)を取り入れ「環境建築」という分野に足を踏み入れた。太陽熱、天井放射冷暖房については以前まとめとめた「葉山氏再評価」を資料として添付するのでそれを参照願いたい。

(6)オイルショック後から地球温暖化対策へ

1990年代は、それまで設備設計は建築に与えられた条件に対して回答を用意してきたが、省エネという立場から設備設計の仕事も断熱の厚さ、ガラスの仕様、日射よけの庇・ルーバー等建築に対して提言することが多くなってきた。同時に設備システムも、それまでテーテンス事務所が進めてきたような中央式システムから高効率機器の採用、個別分散化という方向へ向かい始めた。それに対応するシステムであるヒートポンプエアコン、増圧給水ポンプ、ガス(灯油)給湯器がコンピュータによる制御技術を駆使して急激に発達を遂げていく。
省エネとセットで重要になってきたのが「環境」である。環境はもともと公害問題から言われるようになってきた概念(環境庁が作られた要因)であり主に都市環境を問題にしてきたが、建築の居住環境にも波及してくる。「省エネ」、「環境」が同義語として持ちいれられるようになってきて登場したのが、葉山が提唱した天井放射冷暖房である。「省エネ・環境」設計者としての葉山の時代である。

(7)テーテンス事務所における「省エネ・環境」技術

  • 太陽熱利用 給湯・暖房・冷房
    昼間の強い太陽エネルギーは冷房に、朝晩の弱い太陽エネルギーは給湯にというように太陽エネルギーの強さに応じて使用目的を代えて太陽エネルギーを使い尽くすシステムを作り上げた。葉山は「2つの太陽」と表現し、これがエクセルギー(exergy:エネルギーを量として捕らえるだけでなくエネルギーの質を問題にする考え方)となっていく。サーマルハウス(1979年)、桜美林学園体育館(1980年)、上智大学ホフマンホール(1980年)、江東区スポーツセンター(1982年)、桜美林学園女子寮(1982年)、聖母の園老人ホーム(1984年)、上智大学紀尾井坂ビル(1992年)、住宅と多くの建築で採用された。
  • 雨水利用
    都市洪水が問題になってくるようになり雨水を直接下水道に流すのではなく建物内で貯留しトイレ洗浄水等の中水として利用するシステムで、鹿島建設の設計で杉山隆建築事務所が参加していた両国新国技館(1986年)で提案し採用された。
    上智大学中央図書館、聖母の園老人ホーム、下田市民文化会館(1987年)、環境共生建物地球村等の建築で採用されている。
  • 天井放射冷暖房
    天井放射冷房はエアコンによる冷房病、暖房時の乾燥を防ぐことが出来る技術であり室内環境を向上させるシステムである。特に難しい技術ではないが、日本の様な高温多湿の気候では結露という問題がついてくるのでなかなか実際の建物では採用されることはなかった、葉山はアフタークーラー付除湿機を組み合わせて使用する事によりその問題を解決して実際の建築で使用可能にした。井戸水や太陽熱と組合せが可能で省エネ・環境という社会のニーズに応えていくことが出来るシステムである。
    テーテンス事務所ビル(1984年)、熊谷守一美術館(1985年)、上智大学中央図書館(1985年)、河合塾・横浜校(1986年)、サーマルハウスPartⅡ(1987年)、成長の家教化部会館(1987年)、米沢工機本社ビル(1990年)、埼玉県環境科学国際センター(1997年) 新SANKYO本社ビル(1998年)、等の建築で実施されたが、コストが高くバブル期を過ぎると採用件数は減っていく。
  • 太陽光発電
    京都議定書(1977年)を受け、西京極運動公園アクアリーナ(2002年 仙田満氏+団紀彦氏)では、太陽熱温水パネル2,000m2と太陽光発電パネル500m2を設置して大屋根を覆った。丁度、太陽光発電パネルが普及してくる始めの時期であり、現在のメガソーラーにはかなわないが当時としてはかなり大規模の太陽光発電設備であった。
  • その他の自然エネルギー利用
    自然エネルギー技術として、風力発電、井戸水利用、地中熱利用、海水熱利用、クールチューブ、太陽光追尾装置等の自然エネルギーシステムを実施している。埼玉県環境科学国際センターは自然エネルギーの実験施設であり、放射冷暖房・太陽熱給湯・太陽光/風力発電・雨水利用を行っている。